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篠田さんのやまゆり園の記事を見て 映画「セブン」を思い出してみた

7月26日未明に起きた相模原市津久井やまゆり園」の障害者19人が殺害された事件は本当に深刻だ。殺害された人数が多いというだけでなく、障害者を狙った大量殺人であり、容疑者自身も精神疾患があるのかどうかが問題になっているという、二重三重の意味で深刻な事件だ。ヘイトクライムという点ではアメリカでのゲイ襲撃事件とも通底する、ある種の排外主義が蔓延しつつある風潮とも関わっているように見える。

8月3日、殺害現場となった「津久井やまゆり園」を訪れた。大変交通の便が悪いところだが、事件から1週間以上経っているのにまだ献花に訪れる人がたくさんいる。この事件がいかに多くの人に衝撃を与えたかを示すものだろう。

障害者に関わる事件が起きた時に、以前は私は真先に弁護士の副島洋明さんに話を聞きに行っていた。副島弁護士は残念ながら2014年に他界してしまったのだが、浅草レッサーパンダ事件や池袋通り魔殺傷事件など障害者に関わるいろいろな事件の弁護人を務めた人だ。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20141013-00039932/

その副島弁護士が、障害者の問題に関わる事件報道についていつも批判していたことがある。ほとんどのマスコミが、障害者の問題に無理解であるか、あるいはある程度知っていたとしても差別問題の難しさから腰が引けてしまうかいずれかだというのだ。確かにかつて障害者団体などによるマスコミへの糾弾が行われた時代もあって、その問題に触れること自体がタブーになっていた感があった。

私自身も、障害者に関わる事件の報道で疑問を感じたことはいくらでもある。例えば2014年に図書館所蔵の『アンネの日記』が次々と破損される事件があって、当初は人種差別的思想による犯罪かと大報道が展開されたのに、逮捕された容疑者に精神疾患との関わりがあったとわかるや報道そのものが一切なくなってしまった(逮捕された人は不起訴となった)。

もちろん難しい問題であるから配慮するのは当然だが、報道そのものをなくしてしまうという対応の仕方が本当に正しいのかと疑問を感じたものだ。今回の事件は犯行態様を見ても刑事責任能力がないということにはならないと思うのだが、植松容疑者は衆院議長あてに届けた文書で、心神喪失で釈放されるといったことに言及している。

2月の植松容疑者の措置入院に際して妄想性障害といった診断もなされていたようだが、その妄想や犯行が精神疾患に関わるものなのか、あるいはそうでなくある種の危険思想と考えるべきなのかは、今後大きな争点となるに違いない。私は連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間、関わった経験から思うのだが、そこをどう考えるかは本当に難しい。

植松容疑者の行動は一定の整合性があるから、異常な犯行は精神疾患に基づくものでないという見方は多いだろうが、例えば衆院議長にあの訴えをしてそれが受け入れられる可能性があると本気で思い込んでいたとしたら、やはりこれは異常ではないかという気もする。宮崎死刑囚もひとつひとつの行動には整合性があるのだが、その行動のもとになっている全体を考えるとやはり異常としか思えない、というのが特徴だった。ちなみに宮崎死刑囚の場合は、精神鑑定の見立てが幾つにも分裂したのだが、裁判所はその中で「責任能力あり」という見立てを採用して死刑を宣告したのだった。

さて、そういう議論は今後、捜査の進展とともになされるのだろうが、総力取材を展開しているマスコミに提案したいのは、なるべく精神医療や障害者の問題に関わっている人たちの意見に市民がアクセスできるよう報道のしかたを工夫していただきたいということだ。インターネットという武器ができたことで、新聞やテレビの報道関係者だけが全ての情報をハンドリングしていた時代は終わったといえる。今回のような深刻な事件では、様々な知見を持った様々な立場の人が議論に参加できるようになされるべきだ。

この間、私も新聞・テレビはもちろん、ネットでもいろいろな情報を得ているが、例えば「立命館大生存学研究センター」のサイトなど実に役に立つすごいものだ。

http://www.arsvi.com/2010/20160726.htm

朝日新聞科学部の大熊由紀子さんのサイトでも「メディアの部屋」の「メディアと障害」という項目など参考になる。

http://www.yuki-enishi.com/

その大熊さんが紹介しているが、昨年NHKで放送されたETV特集「それはホロコーストの“リハーサル”だった」という番組が何ともすごい。ドイツのナチ政権がユダヤ人大虐殺の前に障害者を虐殺していた事実を追ったドキュメンタリーなのだが、植松容疑者が2月に「ナチスの思想が降りてきた」と語ったというのはこの動画を見たのではないかと思うくらい戦慄すべき内容だ。今回の事件を考えるうえで参考になるので、NHKはぜひその動画をオンデマンドで見られるようにしてほしい。

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259520/

そのNHKプロデューサー熊田香代子さんが、大熊さんたちが主催するイベントで報告するために書いた下記の文章も参考になる。

http://www.yuki-enishi.com/enishi/enishi-2016-02.pdf

さて、その他にも今回の事件に関して参考になる見解や情報はいろいろあるが、長くなるので、このブログの見出しに書いた「議論すべき2つの問題」の中身を書いておこう。

今回の当初の報道で一番気にかかり議論になっているのは、植松容疑者の2月の措置入院をめぐってだ。既にその時点で犯行を予告していたから、打つ手はなかったのかと考えるのは当然で、警察なりが何ら有効な措置を講じていないのが不思議なほどだ。いったいどうすれば犯行を防げたのか、責任追及を含めてしっかりと検証すべきだと思う。

ただ、そこから短絡的に、なぜ医者は容疑者を退院させたのか、措置入院をもっと長くできるように変えられないかという声が一気に拡大している。これはどう考えても話の混同で、これについては多くの人が懸念を表明しているからぜひご覧になってほしい。

そもそも措置入院をもっとやれというのは、障害の可能性のある者を隔離せよということで、今回の事件で被害にあった障害者の人たちに思いをはせるというのと逆なのだが、ここはぜひマスコミが丁寧に報道してほしい。

なかには今回の事件だけでなく、附属池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)も措置入院が短期に終わってその後犯行を起こしたという例を挙げる人もいるが、宅間死刑囚の場合は、その措置入院と犯行までに2年くらいの間がある。危ない人は何年も措置入院させて隔離しろというのは無茶苦茶というべきだろう。これは性犯罪が起こるたびに、一度性犯罪を犯した者にはGPSをつけろとか、出所しても個人情報をさらせとかいう短絡した意見が感情的に噴出するのと似た現象だ。

措置入院というので思いだすのは、元オセロの中島知子さんの「洗脳」騒動だ。彼女の家族と事務所、それに芸能マスコミがこぞって彼女が「洗脳」されているというキャンペーンを展開し、2013年に彼女は強制入院させられるのだが、今から振り返ればこの「洗脳」騒動は誤報だったとしか思えない。内側から鍵があけられない精神病院の病室に強制的に入院させられるという措置が、チェック機能が十分でないまま恣意的に行使されるというのは恐ろしいことだ。

現在の「措置入院をもっと」キャンペーンは非常に危ういし、そもそも医療行為を、危険人物を隔離する目的に使おうという発想そのものがおかしいというほかない。しかし、今回の事件当初、措置入院は人権上問題があるなどと発言しようものなら、「現実を見ようとしない人権派」といった非難にさらされる空気が一時支配的だった。このあたりはマスコミ報道も十分考えて、措置入院とはどういうものなのかきちんと説明してほしい。

もうひとつ議論すべき問題は、今回の事件の被害者の名前が警察の発表時点で匿名になっていることだ。確かに被害者の家族には名前を出してほしくないと言っている人もいるだろうから単純化は禁物だが、報道にあたってどうすべきか判断する以前に警察の発表段階で匿名というのは、かなり問題だと思われる。この問題については、ほかならぬ障害者に関わる団体が、被害者の匿名報道に疑問を呈している現実もある。つまりこういう特別な扱いをすることも障害者への差別ではないかという意見だ。

警察が実名を公表しないことにマスコミが憤るというのは映画「64-ロクヨン-」でも描かれていたが、今回のような凄惨な事件で、しかも被害者が障害者という難しいケースだけにきちんと議論すべきだと思う。

以上、2つの問題について簡単に提示した。それぞれについていろいろな意見を細かく紹介したほうがよいとは思うのだが、長くなるので割愛する。捜査が進み、事件の全貌が明らかになってくると、さらにいろいろな問題が提起されていくと思う。前述したように新聞・テレビの記者だけでなく、専門家や障害者問題に関わっている人たちをまじえた活発な議論がなされてほしい。

 

これにコメントされているTomoko Isshikiさんのコメント

 

Tomoko Isshiki

なんですか、この方。精神異常者の擁護派ですか?日本に性犯罪や幼児虐待、ストーカー殺人がいつまでたってもなくならない、いや更に増えつつあるのは精神異常者や薬物中毒者を野放しにしてるからじゃないですか。
身体の障害とは全く意味が違う。同じ土俵で差別を問題にする意味がわからない。

精神の異常は幻聴、幻覚、妄想で自分の中の神から殺人命令や退治命令が出てるので、本人はそれが良いことだと思ってやってる事に問題があるんです。
だから彼らを隔離するのは仕方ない。差別ではなく、異常者ではない人が傷付かない為の対策です。
野放しにすれば罪もない人が殺され、精神異常者は殺人犯になる。お互いにとって何もプラスになる事はないでしょう。
 
このコメントをコピペして篠田さんが以下の文章で引用されている
 

相模原で障害者が19人も殺害された現場「津久井やまゆり園」を訪れたのは8月3日、暑い日だった。行ってみると予想以上に交通の便が悪く、なかには相模湖駅に着いてもバスもタクシーもつかまらず立ち往生する人も少なくなかったらしい。そういう場所に事件後1週間以上たっても献花に訪れる人がたくさんいたのが印象的ではあったが、もうひとつ私が感じたのは、まさに「人里離れた」ということがふさわしい「津久井やまゆり園」の都市部との距離感だった。

通ってくる入所者の家族も大変だろう、そういう場所に重度の知的障害者の施設があるという、そのことがもたらす感覚は、彼ら障害者とその家族が抱えている重たい現実を象徴しているように思えた。建物のたたずまいも、その広大な敷地の全容が道路からはわからないようになっている。事件について関心のある人は資料を見るだけでなく、ぜひあの現場を訪れ、その距離感を肌で感じてほしい。

同園はいろいろなイベントを近隣の人たちを招いて行い、地域との交流を大切にしていたという。たぶん地域と隔絶されぬよう、偏見を持たれないようにという配慮なのだろう。そういうことも含めて、現場を訪れて感じる印象は、障害者をめぐる問題、そしてこの事件の深刻な現実を現しているように思えた。事件を取材する時に、こういう「現場」をめぐる実感を身体的に味わうのは大事なことだ。

さて、前回、この事件について書いた私の記事への反応で目についたこのコメントの一部を紹介しよう。

《なんですか、この方。精神異常者の擁護派ですか?日本に性犯罪や幼児虐待、ストーカー殺人がいつまでたってもなくならない、いや更に増えつつあるのは精神異常者や薬物中毒者を野放しにしてるからじゃないですか。身体の障害とは全く意味が違う。同じ土俵で差別を問題にする意味がわからない。(以下略)》

コメント欄の一番上にあったので目についたということもあるのだが、facebookへの書き込みらしい。一応実名での発言らしいし、意図的に悪意をもってコメントしているわけでもなさそうだ。もしかすると一部市民の平均的な感想かもしれない。私が措置入院の強化拡大を批判したことに反論したのだが、精神障害者と精神異常者という言葉をほとんど重ねて使っていることも気になるが、それ以上に気になるのは「野放しにするな」という対象に、身体障害者は別だ、とわざわざ断りを入れていることだ。今回の事件で被害にあったのは重度の知的障害者と言われているのだが、この人は知的障害者をそのふたつの分類、許せる障害者と許せない障害者の、どちらに入れているのだろうか。

そんなことを感じたのは、どうも今回被害にあった障害者の実像が十分にマスコミでも伝えられていないのではないか、という気がするからだ。そうでなければ障害者がこれだけの惨劇にあった直後に「日本に性犯罪や幼児虐待、ストーカー殺人がいつまでたってもなくならない、いや更に増えつつあるのは精神異常者や薬物中毒者を野放しにしてるからじゃないですか」という言葉は出てこない気がするのだ。

今回の事件のそのあたりの難しさを反映しているのが、被害者の実名公表をどう考えるべきかという問題だ。実は3日に現場を訪れた時、たまたま知り合いのジャーナリストと顔を合わせたのだが、真っ先に「篠田さんはどういう意見ですか?」と訊かれたのがその問題だった。私は「実名を報道するかどうかは報道するものの判断に従って決めればよいうと思うが、警察が報道機関にも実名を明らかにしないのは誤りだと思う」と答えた。これはたぶんマスコミ全体の多数意見だと思うが、その原則通りにいかない事情が今回の事件にあることもまた確かだと思う。帰京後、下記の産経新聞4日付の記事を読んで、その思いを強くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160804-00000074-san-soci

産経は事件発生後、一貫して、警察が実名を公表しないのを批判してきた新聞だ。

http://www.sankei.com/affairs/news/160727/afr1607270011-n1.html

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160731-00000056-san-soci

警察が「遺族の意向で」と説明するのをそのまま鵜呑みにしてはいけないというのも原則だ。ただ上記の4日の記事は「犠牲者19人のうち18人の遺族に確認したところ、いずれも実名での公表を希望しなかったという。残る1人の遺族についてもその後、弁護士を通じて実名公表を希望しないとの意向を確認した」と、極めて具体的だ。一般の事件でも遺族の中には、家族を失って悲しんでいる時にマスコミに騒がれたくない、という思いはあるが、やはりこの事件の場合は特別な思いがあるのだろう。重度の知的障害者に対する世間の偏見や差別という問題を抜きにはこの事件は語れない。

もちろん、だから警察の対応も仕方ない、などと言うわけではない。何人かの被害者の家族は実名を名乗って、被害者について語っているし、殺害された19人の遺族の中にも、匿名で取材に応じている人はいる。彼らは恐らく、この事件を機に障害者に対する世間の関心が高まった時に、少しでも偏見を持たれることのないよう、障害者の実情を少しでも理解してほしい、そのために発言すべきだと考えたのだろう。その勇気には敬意を表したいし、何とかして当事者を説得し、そういう声を引き出すのがジャーナリズムの仕事だと思う。当事者が嫌がっているのに無理やり実名や写真をさらすというのは論外だが、今回の事件を前にしてはさすがにそこまでトンデモない報道機関はありえないと信じたいが、いずれにしてもそうした難しい状況の中で取材し報道することの意味を、現場の記者は日々考えさせられていると思う。

前のブログ記事に書いた通り、私は熱血弁護士・副島洋明さんが関わった事件を取材することで知的障害者の問題に関わる機会を得たのだが、例えば知的障害者への差別や偏見を示す事件として2005年に問題になった「宇都宮冤罪事件」がある。重度の知的障害者が強盗犯として逮捕され、本人の自供もあって懲役7年の求刑を受け、まさに判決が出るというその時に、別の事件で逮捕された人物が真犯人であることが判明したという事件だ。まさに首の皮一枚のタイミングでその障害者は無罪になったのだが、真犯人が判明しなければ彼は明らかに実刑判決を宣告されていた。やってもいない容疑で逮捕され、警察の誘導によって犯人にされてしまうというのは、彼が知的障害ゆえに自己を守るスキルを欠いていたからだが、それ以上に、警察や世間の偏見というのがこの冤罪事件の背景になる。途中から弁護人として関わり、果敢に事件の真相を暴いていったのが副島弁護士だった。2005年頃、月刊『創』はほぼ毎号のように、この事件の進展を副島弁護士のインタビュー記事で追及していったが、それ以上に当時大キャンペーンを張ったのが地元紙・下野新聞だった。

という話を説明しようとしてネットで検索したのだが宇都宮事件についてのまとまった報告はほとんどネットには残されていない(トホホ)。私も当時は、こういうヤフーニュース個人のような場がなかったために、ほとんどネットに記事を残すこともなく、副島弁護士とはそのうちに一連の経緯を本にしようと言っていたのだが、突然難病に冒され、還らぬ人となってしまった。

さっきネットでわずかに見つかった副島弁護士のインタビュー記事を紹介しておこう。ここで宇都宮事件についても語られている。

http://www.futoko.org/special/special-03/page0623-157.html#memo1

そのほかにも私は副島さんを通じて幾つかの知的障害者が関わる事件に触れる機会があり、その過程で知的障害者の家族の話を聞く機会も何度かあった。だから多少の事情は知ってはいたのだが、今回、「津久井やまゆり園」を訪れ、それが予想以上に人里離れた場所にあることを知って、その風景の背景に、知的障害者やその家族が偏見や差別に苦しんできた現実が影を落としているように感じられてならなかった。

今回の事件は、社会に存在する深刻な問題を幾つも浮き彫りにした二重三重に深刻な事件だ。背景にあるものも含めて、きちんと社会に問題を提起していくことが、いま報道機関に求められていると思う。

 

まーissikiさんは鬼畜植松を措置入院させつづけたほうがいいという考え方だw

 

篠田さんは鬼畜植松も 被害者やその他精神障害者も同じとはいわずともそういう面で捕らえているので 偏ってはいけないという常識的で結論が出ない八方塞りな考え方だ

issikiさんは鬼畜植松のことを精神異常者といってるわけで やまゆり園の入所者のことをいってるわけではないのだが なぜか篠田さんの焦点がやまゆり園の入所者の名前を公表するとかどうとか まったく関係ないところにいってしまっていて むしろ植松とやまゆり園での被害者やそのほかの入所者と混同してしまっている issikiさんは別個で考えてるだけだろう 精神障害者という言葉と精神異常者という言葉を混同して使ってもいないように今のログではみえる というか精神障害者という言葉はissikiさんは使っていないので 篠田さんの勘違いであろう それか他のログには出会ってないので私の見落としか?

 

私の考えは2月に措置入院させた時点で大麻やっていたのだから 大麻使用で逮捕 刑務所にぶちこめ という考え方 そうしなかったから今回の事件になった しかも大麻使用を検査機関や市や やまゆり園は知っていたはずだから 措置入院という中途半端な処分にして 刑事事件にさせなかったことが原因だ ということ

 

 

では植松はどうやってかんがえていたか?(あくまで私の想像)

 

「自分を精神障害者だとレッテルを貼るのなら 大量殺人を犯しても 自分は精神障害者として処罰されることはない こんな自分のような異常で危険なヤツ(と同じような障害者も)を殺さなくていいのか?? だから私の障がい者はすべて殺せという主張が正しいではないか??」

 

つまり自分(植松聖)が死刑になることによって 障がい者は殺すことが正しいと証明できるではないか

 

もし死刑にできないのならやはり今の世の中が間違っているからだ。。。。と そして自分は生きながらえるw

 

どっちにしろこの鬼畜のいうことがなぜかまかり通る異常な正論ができあがってしまう

 

このパターン 映画1995年の「セブン」と似ている 

 

7つの大罪 キリスト教徒でもないのでよく知らないが ともかく人間はおろかなものだということをテーマにして 大罪を犯した(とでっちあげられた?)人を血祭りで殺戮していき最後にはそれを追う刑事?(この人は家族を殺されたのだったかな?)に犯罪者である自分を射殺させて完成する

 

みたいな映画であったはずw 

 

欧米の映画はキリスト教や愛と憎しみというテーマがよく使われてますよね

 

ま それはともかく その中の犯罪者はとにかくその理想的な7つの大罪を完成させるためのパーツの最後に自分の死をかけている 殺せるのか殺せないのか? 本来なら逮捕しなければいけないところを どうせおまえは私恨で私を殺してしまうのであろう。。。という どちらにしろ自分の常識的に傍目から見れば異常な理解できないことをなぜか最終的には犯人の正論をその周りの状況が立証してしまうというパラドックスですね

 

まあそんな映画だったと記憶してますが

 

鬼畜植松にそこまでの考えがあってやったのかもしれないと思うと同時に それを汲むような理解者はいないとおもうけどもw