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吉永小百合さん援護 平和憲法 改憲反対

 日本を代表する女優・吉永小百合が、71度目の終戦記念日を直前に控えて、反戦と平和、そして憲法9条への想いを続けて発言し、話題になっている。

 たとえば8月7日放映の冠ラジオ番組『今晩は 吉永小百合です』(TBSラジオ)では、ゲストに昨年の安保法批判で『NEWS23』(TBS)を降板させられた岸井格成氏を迎えて改憲問題に言及。岸井氏が“先の戦争の反省の象徴こそが憲法9条だ”と、改憲により戦前に逆戻りする危機感を募らせると、吉永もまた「憲法9条はバイブルのように大切なもの。絶対に変えさせるわけにはいきません」と護憲への強い意思を語った。

 だが、最近の吉永が最も危惧しているのは、その「護憲」「反戦平和」を口にすることすら難しくなっているという、時代の空気感だ。現在発売中の「女性自身」(光文社)8月23・30日合併号に、吉永と政治思想学者・姜尚中氏の対談が掲載されている。タイトルは「みんな、声をあげて! 命が押し潰される前に」。冒頭、吉永は自身のこんな体験を語っている。

「私は若いころ、母に『なぜ戦争は起こったの? 反対はできなかったの?』と質問したことがあるのです。
 そしたら母は、ひと言『言えなかったのよ……』って。言えないってどういうことなんだろうと、その時には理解できなかった。けれど最近、母の言っていた意味がわかります。今の世の中を見ていると息苦しい感じがして」

 たしかに、吉永の言う「世の中の息苦しい感じ」は、確実に戦前のそれを彷彿とさせるものだ。それは、吉永が身を置く表現芸術の世界にも浸透している。この8月、東京・東池袋新文芸坐では「反戦反核映画祭」と題して、21日までの期間中、戦争や原爆の実態を描いた日本映画約30本を上映するが、劇場支配人はマスコミの取材に対し「反戦反核という言葉を使うことにも勇気がいるような、嫌なムードになってきています」と語っている(中日新聞7月19日付)。

 

反戦反核映画祭」では、7日に吉永の出演作『愛と死の記録』と『母と暮せば』の2本も上映された。1966年公開の『愛と死の記録』は、幼いころに被爆し、その後原爆症を発病して絶望した男性と、彼を励ます女性との悲愛を描いた映画だ。

 こうした原爆をテーマとする作品を上映することすら「勇気がいる」と言われる状況について、吉永は前述の姜尚中氏との対談で支配人の談話を紹介しながら「そんな時代になったのか、と改めてショックでした」と心境を吐露。姜尚中氏も「政治や平和を口にする人は、特別な主義主張を持った人ではないかと思われてしまう。言論の自由があるのに、政府に反対の意志を示すようなことを言ってはいけないのではないかと」と応えている。

 まさに2人の言う通りだろう。いま、日本が確実に“自由に平和への気持ちすら出せない国”になっているのは事実だ。一昨日、本サイトでもお伝えしたように、長崎の平和祈念式典では参列席から「改憲反対」と声を上げた男性が警察に連行された。ほかにも、昨年頃から「憲法9条」と記されたTシャツやバッジを着用しているだけで警察から詰問されたり、公共空間から排除されるなど、まるで治安維持法特高警察が幅をきかせる戦前のような“事件”が連続して起きている。

 そして、この空気を作り出しているのは、間違いなく安倍政権だ。たとえば先月、自民党はホームページ上に「学校教育における政治的中立性についての実態調査」なる“密告フォーム”を設け、教員が「子供たちを戦争に送るな」と生徒たちに言うことを“偏向教育”とし、取り締まりに動いた。自民党はこの“密告フォーム”に寄せられた情報を警察当局に提供する考えまで示している。

 つまり、安倍政権は、教員が平和を訴えるという当たり前のことすら、警察ぐるみで糾弾しはじめたのだ。

 さらに最近では、奈良県奈良市で毎年開かれる「平和のための奈良市戦争展」に対し、市側が例年行ってきた「後援」を取り消すという事態も起きている。その理由は「米軍『NO』などと記した挿絵があり教育的中立性が順守されない」という信じがたいもの。沖縄在日米軍問題は、先の戦争の経験と直結する日本の歴史問題だ。それが「教育的中立性」の名のもと“偏向”とされるのも、明らかに安倍政権による教育統制の影響が大きい。

 

 しかも深刻なのは、こうした政府与党や自治体が主導する“反戦平和への締め付け”に、少なからぬ国民が同調していることだ。たとえば、芸能人やアーティストなどの著名人が少しでも政治的発言、とりわけ安倍政権を批判しようものなら、ネットですぐさま炎上騒動が巻き起こり、血祭りにあげられる。それは、真摯に反戦平和を訴えている吉永が、ネット上では“在日”“反日女優”“売国芸能人”などという大バッシングに晒されるほどだ。

 しかし、吉永はこうした状況に怯まない。むしろ、反戦や平和、護憲を言いづらくする圧力があるからこそ、みんなで声をあげる必要性を訴えるのだ。

 7日、新文芸坐で行われたトークイベントで、吉永はこのように語っている。

「私がいくつまで元気でいられるか分かりませんけれど、80歳になったときには戦後80年、90になったら戦後90年、100歳になったら戦後100年と、“戦後”が続いてほしい。そのためには、私たちが『戦争は、嫌だ!!』としっかり言わないといけない。そう思っている方たちは声に出して!と願っています」

 1945年生まれの吉永が、自身の年齢と重ね合わせて“戦後”という歳月を強調するのは、おそらく「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相へのアンチテーゼだろう。そして、誰もが知る大女優である吉永が目線を下げずに「私たちが」と呼びかけるのは、「改憲してもさすがに戦争はしないだろう」とタカをくくっている多くの国民に対して、真剣に訴えかけているからに他ならない。

 自民党改憲草案が目論むように、自衛隊が「国防軍」となれば、この国は戦後、初めての戦死者を出す。もちろん、人も殺す。だからこそ、吉永の言うように“私たち”みなが連帯して「戦争は嫌だ!!」と叫び続ける必要がある。将来、子どもたちに、いま私たちが生きている時代を“戦前”と呼ばせないためにも。
伊勢崎馨

 

吉永小百合さんを応援したいところです いま平和9条憲法があるにもかかわらず 自衛隊という実質軍隊のようなものを持ち いつでも戦争ができる状態にしていることは 違法なことです コレに反論する人たちは 災害が起こったときはどうするんだ! とかいいます それはそれ 災害のための自衛隊使用はわかります

 

それと実際問題軍隊のようなものをもってるにも関わらず 実態とそぐわなくなってきているので改憲しようという理屈 これも一見すると正しそうにも見えますがあえてこの理論を使って反論すると 日本という国はほっといても軍隊を持たない憲法があるにもかかわらずそれを反故にして実質軍隊を持っている羊頭狗肉の危ない国です これを実際に戦力を持ってOKとしてしまうような なし崩し的な憲法を作れば 核兵器でもなんでもOK 先制攻撃OK 国民徴兵制度OK 国民の自由な発言表現を監視 禁止 集会の自由を禁止 インターネットでの自由な発言閲覧禁止 禁止事項に抵触する人間の拘束、暴行是認 など歯止めが利かなくなる危ない国なのです ダメっていってることやっちゃうんだから!なし崩し的改憲は今の中国の尖閣諸島領海侵犯や韓国の竹島実効支配とやり口がいっしょ

 

今の状態は改憲イベントをしようということです しかもあまり国民に関係ない天皇の自由な退位という あまり戦争と関係ないと思えるもので さらにそれが成功したら 平和憲法をいじり さらにさまざまな国民を戦争に動員しようとする改憲に手を染めます 改憲が当たり前になってる状態を作り上げることで 軍国主義の台頭を狙ってきているのです 

 

なぜこのようなことをしようとするのか?まず政治家が平和の大切さをわかっていないということと 過激なことを好むマスコミに迎合したいという 大衆迎合志向の政治家がいるということ そしてアメリカの要請 アメリカの国防費がこれ以上かけられないので 日本にその肩代わりをして欲しいという実に切羽詰った理屈 さらに戦争をすればお金がもうかるという武器商人 それらに動かされるアメリカの政治家の陰謀があります

 

なので平和憲法だけは覆すことのないようにしなければならない 間違ってはいるがボロボロになっても平和憲法があることで 保たれている一定の秩序があるというもの これがなくなれば 基本的人権も すべてが覆されていって 日本という国の空気が一変することでしょう

 

実際にそぐわないからといって武器を自由に使えるような軍隊をもってしまえば 中国のケンカに必ず乗るでしょう 乗ってしまえば 国民の命はありません 戦争は自衛隊さんががんばって戦ってくれる オリンピックではありません 国民一人ひとりが殺され相手の国の国民を殺すということが戦争です たくさん殺さなくては勝てません 戦うのなら勝たなければ 無意味なのが戦争です 鬼にならなければ 敵国に勝てません そのためには親だろうと子どもだろうと戦地にいかせなければなりませんし 自分も命を懸けて殺しにいかねばなりません もちろん死にます これが戦争なんです

 

だれかが戦ってくれる それはちがいます 国民を戦争に向かわせたいなら政治家ども!お前らがまず死に花を咲かせてくれ ぬくぬくと銃後にいて皆に戦争をよびかけるな!マスゴミもそう 勝った負けた許せんぶっころす とかいうならおまえがまず戦地で死んでくれ!死なずしてだれかに戦地にいかせようとするなクズどもが!

 

まず実際に自分が殺せるのか?考えてみて欲しい なんとなく仮想現実で世界情勢を見るから核もったほうがつよいんじゃね?みたいなバカな発想ができるのである おとすほうはいいよね 落とされるほうのキモチがわからないから おとされてみないとわからない ・・想像力の欠落ですよね 本当に落とされたときには何が起こったのかわからないまま即死なんですよw

 

ということです つまらない戦争ごっこにはおわらない これが戦争です 一旦始まったら終わらせることはできません 日本人や天皇も無能なので 原爆がおちるまでは戦争を終わらせることができません 21万人の人間が即死してはじめて 仕方が無いとあきらめたのです 日本には戦争を終わらせる能力は無い 国民も神も 軍隊も だれもがおわらせることができなかった それは膨大な数の尊い死をもってのみなしえたこと

 

つまり軍隊を持つとか核を持つとかいうことは理想やシステムの問題ではないのです いかに多くの人を殺せるのかどうか?国のために死ねるのかどうか?という一人ひとりがリアルに考えるべき切実な問題です どうかんがえたって殺すべきだ 自分が死んでも殺したい こうなったとき戦争というのが本当の意味で意味ある戦争

 

死んで虜囚の辱めを受けるなと 日本人の情報操作によってたくさんの沖縄人がなくなっていることや 実践での銃撃戦では敵に殺されるより味方同士での殺し合いが起こることや 特攻作戦などでは美化されて報道されることで まるで死ぬことが素晴らしいことかのような錯覚を与えて 兵士が死んでいきました 効果のある作戦ならまだいいですが回天という魚雷型特攻機は約140名が参加して 当たったのは1発か2発だったといいます 最小限の犠牲をもって最大限の効果を発揮せねばなりませんが もうそこは精神論にすげかえられて思考停止状態ですよね 指揮官さえ疑問に思える作戦しか残っておらず 勝つためではなく いかに日本1億総国民が玉砕するかに 焦点を持っていくようになっていきました 戦艦大和でも3332名が亡くなっていますが これは沖縄を救うためという名目ではありますが 飛行機の援護がない中で自滅の作戦でした 大和の優れた技術をアメリカに奪われたくない このため捨てられるために特攻作戦を言いつけられました もちろん人も無駄死にです 作戦失敗による甚大な被害にも反省はせず 軍部や天皇は終戦を決めかねます 

 

戦争を勝利に導けなかった軍部は国民に申し訳ないといってハラキリするべきでした が戦争責任裁判でアメリカに処刑されるという無様な死に様をするだけでした

 

一切国民を守りきれない戦争責任者たち 負けたその責任を負うことまで潔くできない

どころか終盤では国民を殺しにかかっているのです なんのための戦いか目的が明確でないなんておかしいでしょ 戦争責任者なんてそんなもんです この事実をもってしても軍隊を持つことが正しいとかいえますかね? 軍隊は私たちを守ってはくれません むしろ死に駆りたてます 

 

実際に自分は死なないから大丈夫と思ってる人も間違いで 戦争に負けたら 敵対していた国で強制労働させられて 数十万人が亡くなっています 戦争が終わっても殺され続ける人がいるということです 戦争をなめちゃいかんよ 自衛隊員が殺された?それでよし 百人の自衛隊員が殺されたからといって1億総特攻に傾くほうがおかしいのだ 少ない犠牲はガマンガマン これが戦争ができない日本が目指す道

 

1億人が一丸となって戦わなければならなくなったとき 政治家とマスゴミがまず逝ってこい!その後でオレが死んでも日本を守ってやる!